1年程前の事なのですが,自分の失言によって,一人の人の心を極限に不愉快にしてしまった。
その方はSarubiaのような人間と付き合いたくないと,Sarubiaの前から姿を消された。
Sarubiaはその事によって,如何に自分が不注意に発する言葉によって,
          多くの人の心を傷つけている事があるのだろうと,認識した。その事が
最近ますます気になりだして,自分の責任を追及していただけでは解決しないし,
自分を許すとはどういう事なのか。せめるだけではいけないし,
許すだけでもいけないし。今ある自分を認めただけでも,解決しない。。。
このような時は,どうあるべきなのか,Sarubiaが心の勉強をさせて頂いてる
「やっとかめ通信」にてお尋ねしてみました。以下がそのお返事です。

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Sinsuiです。

Sent: Wednesday, February 19, 2003 9:53 AM
Subject: 自分を許す心

> ↑は,1年程前の事なのですが,自分の思うままに書きました。が,
> 最近ますます気になりだして,自分の責任を追及していただけでは解決しないし,
> 自分を許すとはどういう事なのか。せめるだけではいけないし,
> 許すだけでもいけないし。今ある自分を認めただけでも,解決しない。。。
> このような時は,どうあるべきなのでしょうか。

自分を責めることも許すことも、どの視点で行なっているか、ということが問題でしょう。

「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念[おもい]を難思の法海に流す」
と親鸞聖人がおっしゃられたように、心は仏心の展開する浄土に根をはり、
そこから自分の姿も見え、そしてその背景に「無始よりこのかたの宿業」が見える、
自他の流転する姿、迷い流されている姿が見える、
この「姿が見える」ということ、視点の尊さに気がつくことが大切なのです。

しかし、「他人は許すが自分に厳しい」というのでは、視点がまだ自分を離れていない、
もちろんその逆、「自分に甘く他人に厳しい」も同様ですし、
「自他に甘い」や「自他に厳しい」というのも、やはり真実の視点とはいえません。

迷い迷って流転する自分の上に視点を置いても、これは当てにはならない。
自分が今どっちを向いているのかさえ分からないのに、
「今自分が向いた方向に行けばよい」と考えるようなものです。
この視点で許したり責めたりしても、正しい判断とはなりません。
さらに言えば、他人の視点はもっと当てにならない。

真実の呼びかけに肯き、呼びかけられた場所に立って見れば、
自分も含めて、全てのいのちを尊敬する心が我が人生の導きとなってくれているのに気がつきます。

金剛の不動の地においてこそ、真実が見えるのです。
聖徳太子の言われた「世間虚仮 唯仏是真」も、これを言います。

「自分を許す」ということは、確かに大切ですが、決して忘れるということではありません。
「無始よりこのかたの宿業」に気がつき、深い懺悔の心を起こす、この心が仏心であり、許しなのです。

自らの行為や心情が、そのまま許されるのではありません。
かといって、行為や心が清らかになってから許されるのでもありません。
ひとつひとつの心に注意して、失敗しないようにすることで許されるのでもありません。
懺悔とともに、仏心が身に満ちることが尊いのです。

仏心とともに歩んで下さい。
そうすれば、「自分を許すか許さないか」というのは、自然に答えが出ます。

PS:
以下の言葉は、直接の回答にはなっていませんが、
遠く導くことで、自然の回答とさせていただきます。

「至心信楽の願」より
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/hongan18.html
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 至心は真実心に違いありませんが、まだその内に不純なものをはらんでいて、その在り方は理想主義から
抜けきれません。理想主義というのは、その描いている理想は、現実を否定内容とした現実の
投影で、夢であり、その眼は常にかなたをにらんでいて、足もとは「やせ馬の尻を叩く」奮闘努力型です。
したがっていつも緊張していなければなりませんが、それは生き方に無理があるからです。仏教では
これを自力というのです。しかし至心そのものは矛盾をはらんでいて不純ですが、この心は仏性の開発に
重要な役割を持っているのです。そこでこの至心のことを引出仏性と呼んでいるのです。 それは至心は
仏性には違いないが、まだ純粋な仏性ではない。我執の殻をかむっている。その殻を破って中の仏性を
開花させる、仏性を引き出す仏性であるというのです。私は仏性とか如来とか、本願とか浄土といわれる
ものは、魂の地下水だと思っています。地下水は地球のどこにも行き渡っていますが、そのままでは自分の
ものになりません。「わが魂の底深く名告り続けるみ仏の久遠の」四十八願の願いを開発する作業が、
聞法であり求道です。・・・至心は地下水の信楽を働き出させる大切な役割を有っているのです。
<中略>
 後悔は起こった意識の波に眼がついているのですが、慚愧はその根底の性格に目がついた段階です。
「思うも思わざるもこれ妄念、造るも造らざるもこれ罪のかたまり」。思うたから悪いのでもなく、思わぬから
善いのでもない。したからせんからではなく、その根本の性格そのものの悪に対する慚愧です。
 ところが懺悔は性格をもっと深めて、その由って来たる根源の、無始よりこのかたの宿業に眼がついたことです。
一般には悪の行為に対する反省を懺悔といっていますが、それは意味が転化したので、
仏教本来の意味ではありません。
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「還相回向の願」より
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/hongan22.html
―――――――――――――――――――――――――
人生に随順していくということはどうしてできるか。それははじめから人生というものに引き廻されている者には、
おそらくできることではないでしょう。それからまたいたずらに理想を追って、どこまでも悪を離れ善に進まなければ
ならないというような、理想主義的な立場でも、おそらくほんとうのことはわからないでしょう。ここに理想の返照
ということを思うのであります。<中略> 善に誇らず、悪にも染まらず、すべての人が、悪人は悪人ながら頭が
下がり、善人は善の誇るに足らないことを懺悔するところに、善悪すべてがそのままに照らされ、差別のまま
平等の光に照らされる。そういうような一つの天地に出て、はじめて人生随順ということが出てくるのであります。
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        Sinsui
      「やっとかめ通信」
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 この「自分を許す心」に関して,Sinsui様から頂いたメールをHPにて転用させて頂くについて,

  深い懺悔は、簡単に言えば「人類同じように罪悪の歴史を背負っている」と覚ることですが、
自分の主体が立ち上がっていないと、「人間のサガだからしょうがない、自分がやっても許されるんだ」
と、なってしまいます。しかし、主体が立ち上がっていれば「人の罪悪は私にもある」と、敬虔な気持ち
になります。あくまで、みずからを善処することが前提にあるのです。


       このようなお言葉を頂きましたので合わせて,掲載させて頂きます。