いのちの尊さ B

― 存在そのものが価値である ―


平成12年5月20日仏青連盟研修会
[講師・伯水永雄 先生]

◆ 尊厳が侵されてゆくことを越える

 ある仏教壮年会の例会で、こんなことがありました。ある人が「私、この頃老眼になったらしく、
物が見えにくくなった」と言われたら、それを聞いた人が「お前もうそんなだめな奴になったんか」と言われました。
 そう言われたら、言われた方はもう次の言葉が出てきません。そんな時、別の方が応援して下さったんです。
「お前そんなこと言うもんじゃないよ。他人のことだと思わず、自分の事だと思って考えてみなさいよ」と、
「そんなこと言ったって、役に立たんようになったんじゃないか」と反論されましたが、「私も老眼になってしまって、
眼鏡を買わなくてはならなくなったが、本当に不便なもんだな」と言われまして、最初の人と肯きあわれました。

 誰も老いたくないんです。それを、そのことで優劣をつけてしまっては、互いの苦を担いでいくことはできなくなります
 ですから、ままならないことを、そのプロセスを噛み締めていく、というのが人生なんですね。しかし、
人の尊さが踏みにじられていく中では、踏みにじってきた人に対するものの見方が、そのまま自分に対する見方になります。とすれば
自分自身も価値の無い存在になってゆくしかありません。
 そんな生き方にあることを、ままならない人と歩んでいく過程がいのちであるとするならば、このことが
噛み締められていく、心に刻んでゆく、そんな生き方が私たちの前に開かれていくのです。

 いのちの尊厳が侵されていること、そのことをいのちの尊さを侵されている人から聞いてゆく。
 それは社会的立場の弱い方であり、少数者であったりするのです。その声を聞いてゆくというのは、
その方々だけではなくて、実は私たちがお互いが担いでいる荷物をどう超えてゆくか、という視点を提供してくれることであると思われます。

 ですから尊厳は「いのちは尊いんです。一つしかないいのちです」と言うことで守られるのではなく、
尊厳が侵されていく、そのことによって自分自身の人生の力を失わせ、歩むことが出来なくなってくる。
そのことをどう超えてゆくか、という歩みをすることで、尊厳を確立されてくるんですね。
 いのちの尊さというのは、こんなふうに尊さが踏みにじられていますね、こんなことは互いに止めて
行きましょう、そのことを克服していきましょう。そのためにはどんなものの見方をすればいいのか、
と考えて初めて見える、尊厳は回復されるんです。

 どれだけ看板で語ってもだめですね。そしてそのことを学んでいくということは、他のことではない、自分の尊さに目覚める、ということです。
そしてその方々と共に歩んでゆくことが出来る、という道が開かれるのではないでしょうか。

◆ いのちを量りにかけない

 そんなものの考え方の基本を示して下さるのが私にとっては『南無阿弥陀仏』という言葉ではないか と考えています。

 ご存知のように「南無」も「阿弥陀」もインドの古い時代のサンスクリット語で、音で訳したわけです。
 私は「ジャパン」というのを最初に聞いた時、どこの国のことかと思いました。やっぱり「ニホン」と言って
もらわないと「ジャパン」では教えてもらわんと分からないですね。「ナモアミダブツ」は、みんな同じ言い方
になってます。インドの言葉で「ナーモ」と言ったのを「南無」と字を当てたわけです。

 その意味というのは、「命に帰する」「おおせに従う」ですから「南無阿弥陀仏」というのは、「阿弥陀」
という覚りを開いた方の教えにまかせて生きます、という意味です。
 どういう教えですかといったら、「阿弥陀」という文字に顕されています。「アミターバ」「アミダーユス」
という言葉で、「無量寿」、「無量光」と漢訳されています。
「寿」というのは「ことぶき」ですからおめでたい意味かなと思っていましたら、これは「ながらええるいのち」、
「いのち」ということです。
 つまり「阿弥陀」という仏様は、いのちに限界が無い。いつの時代でも普遍的にはたらく仏様である、
ということです。私の人生で言えば、老いも若きも、健康な時も病の時も私の支えになってくださる、
ということです。人生で調子のいいときも悪いときも頼りとなってくださる、そういう仏様のはたらきを
自分の名前に込めてくださった
んだと解釈できます。

 また、「無量寿」をこんなふうに味わわれる方もみえます。「寿」は「いのち」ですから「いのちを量りにかけ無い」
というものの考え方に立っておられる仏様、ということです。
 名前は願いに基づき、願いは覩見・見立てに基づいています。例えば「幸子」といったら「幸せになってほしい」
という願いが込められています。「金蔵」といったら「金の蔵が建つくらい儲けてくれ」というのでしょうか。
名前は願いを表しています。
 ただ、逆にいいますと、「健康になってほしい」という願いは「身体が弱い」という見立てがあるから
されるものです。名前は願いであり、願いは現実に対する見立てがあってなされるものです。

 先ほど「いのちを量りにかけない」 「南無阿弥陀仏」という名前のいわれがありましたが、それは
「いのちを量りにかけている」という現実の裏返しなんです。 そこでは「役に立つか立たないか」
という価値観が幅をきかせ、お父さんのことを「粗大ゴミ」などと言う例まで出てきます。

◆ 価値を変換してゆく

 いのちを量りにかけて見ていく生き方が、自己の尊さも他の尊さも見えなくしている。自分にとって
役に立つか立たないか、という見方は、家族であろうとも利用価値があるかないか、というものの
見方になってゆく

 当然人は自分が見ているようにしか見ていませんから、他人もまた私のことを利用価値があるか
ないかで判断
します。

 そうすると自己と他との関係が切れてゆく。自分自身の価値も他人の価値も見えなくしてゆく。
先ほど「いのちとは生死の存在です、人の生きてゆく過程、それは社会的な人との関わり思い通り
にならない人生を歩んでゆく過程です」と言いましたが、その過程が、プロセスが見えなくなっている。
 原因がそういう生き方にあるという現実をとらまえた上で、そうでないものの見方に立って
いきましょう
と、「阿弥陀仏」は提案されているのではないでしょうか。

 存在が実は価値なんです。それは物質としての存在ではありません。ままならない過程を歩むこと
を噛み締めていく、という生き方が互いの人生であり、「阿弥陀仏」は、いのちの尊さを噛み締めていく
という生き方を示しているのではないかと思います。

 そこで私どもの教団では「南無阿弥陀仏の精神に立ってゆく」ということで、一人の人間やその社会の
持っておる価値観を絶対的なものにしない
。むしろその価値観を変換してゆく。
「信心」というのを別の言い方でしますと「回心(エシン)」と言います。「コンバートする」ということです。
変換するわけです。
 私の価値観、社会のものさしを絶対的にせず、相対的なものにしてゆく。それとは違う立場に
変換してゆく。それを信心とか回心と言うわけです。

 実際には「介護保険で金がかかるじゃないか」という話に落ち着きがちなんですけど、老いや病は
「生産」という価値からいえば何も生み出さないのかも知れません。しかし、その価値に生きると老いや
病の身に置かれた時に、折角たまわったいのちが、そうでなくても老いや病という苦にあわなければ
ならないことを、噛み締めていくことができない。そんな生き方につなげるのかどうか、という選択が
私たちに突きつけられているのです。
 その中で、いのちを量りにかけない見方を選択していくことを「信心」とか「回心」と言うわけです。

 浄土真宗でいのちの尊厳を回復していく視点は「南無阿弥陀仏」ですが、他の宗旨宗教でもそんな
視点があるのかも知れません。
 そのことを互いの視点としてとらえてゆく、認めてゆく、そんな考え方を基調としてゆく、その土台に
あるのは事実から出発してゆくということが重要です。

以上