いのちの尊さ A

― 苦を抱えて生きていく ―


平成12年5月20日仏青連盟研修会
[講師・伯水永雄 先生]

◆ 生死(いのち)とは何か

 10年前くらいから教団の基幹運動計画では「命」ではなく、「いのち」と書いて上に点をつけましょう、
ということが盛んに言われるようになってきました。最近は点を省いて平仮名で「いのち」と書くようになってきました。

 最近は実施されていますが、当時「臓器移植」の問題が論議されるようになってきまして、そんな中で
「いのちというのは単に物体としての生命なのだろうか」という反省。宗教的なものの見方からすると、
肉体が滅んだところで、その人が為してきたことが今の私に影響を及ぼすのならば、その人自身の「いのち」
という存在はあり得るのではなかろうか。そんなものの考え方から、平仮名で「いのち」として、点を打つという
表現をとるようになってきました。それがいつのまにか点がとれていきましたが、それらのことを私たちはどう
受けとっていくかを考えてみましょう。

 仏教では、いのちとは「生死の存在」というふうに考えています。「生死」と書いて「いのち」と読んでも
いるのですが、これは「生にまどい死におびえている人間の姿」で、これはどちらも迷っている。迷いの存在
なんだ。いのち、生き物、人間とは何かが問われているのです。

 後ほど紹介しますが、最近インターネットで「やっとかめ通信」を拝見してましたら、映画をいくつか紹介して
ありましたが、私もこれは見なくてはいけない、と思いまして、こないだうちから二つの映画を見ました。ひとつは
『アンドリューNDR114』で、これはロボットが人間になって不老不死を得たにも関わらず、自ら死んでいく
選択をする、というそんな話なんです。そこでは人間とは何なんだろうかという問いかけがあり、そのことが
評価されてアカデミー賞を取るのではないかと言われている映画です。

 もうひとつ『グリーン・マイル』という映画もそういう「いのちとは何か」ということが問われています。
 臓器移植の問題もそうでありますし、人間全体が「いのちとは何なんだろうか」という問いかけが、
これほど問い直されてきた時代は無い
のではないかという気がしております。

 私たちの教団では「いのち」と書くことで、単なる物体ではない、という考え方なんですが、
それはどうして生まれたのか。人間とは生死の存在、迷いの存在です。また四苦の存在、
「生・老・病・死」の存在です。

「生」とは「生まれる」で、「いきる」のは「活きる」と書くそうです。お釈迦様は「苦」、つまり「思い通りに
ならないもの」として、「生苦」は「いきることがままならない」のではなく「生まれることがままならない」、
思いの通りにならない事を表わされています。
 自分の選択・努力で生まれてきた者はいないわけです。私は富山に生まれましたけれども、富山に生まれたい
と思って生まれてきた訳ではありませんし、男性に生まれたいと願って生まれた訳ではありません。で、
生まれてきたその時から、人間は思いの通りにならない事をかついでいく
んだ、ということを
「生苦」は顕しています。

 「生死」というのは、「生・老・病・死」の最初と最後をくっつけて表しています。人間とは「生・老・病・死」
の存在なのです。4つの代表的な思いの通りにならないことを担いでいくのが人間なんですね。
 そう考えてみますと、人間とはいのちとは「過程・プロセス・歩み」ということです。そしてそれが思いの通り
にならない、老いてゆき病んでゆき死を迎える、その話には二通りあって、「四苦八苦」と言われていますが、
「苦」は「主観的認識」と「社会的存在」から生まれるます。

 自分自身が自分で自覚できてゆく。例えば私は今でも気持ちは青年のつもりでいますが、どうも周りから
見てくださると「40すぎのおっさん」に見られます。友達からも「頭下げておじぎしたらいかんぞ」と言われまして、
髪の毛が薄くなってきたことを自覚するんです。友達の中には「ぎっくり腰になって老いを感じた」というのもいます。
 着実に老いは進んでいくわけですが、これは自分で自覚していくものです。「老いはある日突然やってくる」と
言う人もいますが、そういうことは過去と対比してみるから分かるんですね。「若い時は飲んで遅くまで
つきあっても何ともなかったのが、最近はもうだめですわ」とか、それは過去の記憶があるから自覚できるわけです。
つまり自分で自覚できる点でも「思いの通りならない」、それが「老・病・死」ということなんでしょうね。

 もうひとつ、人と人が社会的存在であるが故に受けるままにならないこと、どうにもならない事、
というのがあるんんですね。
 例えば、お釈迦様は8つおっしゃいました。四苦は「生・老・病・死」で、その他に、愛し合って人とも別れて
いかなくてはならない「愛別離苦」、そこでは愛する対象があるから、ままならないことが生まれてくるわけです。
「怨憎会苦」というのは、心通わない人とも共に生きていかなくてはならない、そうした思い通りならないこと。
これは心通わない対象がいるからその苦はうまれてくるわけです。
 つまり一人で生きているのではなくて、社会的に生きているから、そう考えてみると、「いのち」は苦と説明しましたが、
もうひとつは、他との関わりの中におけるプロセス。仏教では、他と関わっていくプロセスを歩むことを
「いのち」ととらえた
のです。これは「四苦八苦」というものの考え方から類推するとそういうことが言えると思います。

◆ 長すぎる『グリーン・マイル』

 人生で、そのことが一番元にある。人はそのことは避けたいことですが、必ずやってくる、ということで、
先ほど言いました映画『グリーン・マイル』の話です、1930年代、日本では昭和恐慌が起る時代ですが、
アメリカをバックボーンとしたお話。ある州の死刑囚と刑務官の交流の物語りですが、グリーン・マイルというのは、
その独房から電気椅子まで向かっていく道が緑色に塗ってあることから、死に向かっていくことをグリーン・マイルと
表しています。
 その刑務所に無実の罪で捕らえられて死刑を宣告された囚人がやってきます。その囚人が無実の罪であることが
分かるのですが、なぜわかるのかといいますと、その人は神の啓示を受けて奇跡を起こすことができる、ということです。
 しかし、無実を証明できないために、自らがその人を死刑にする、という物語です。途中色々なこと、
ねずみが出てきてパフォーマンスを見せたりするんですが、その中で死刑囚から神の力を賜ることによって
長生きをする。物語の最初と最後に老人ホームで現役時代起ったことを話すという、その語っている元刑務官の
老人が108歳だ、という物語です。

 長生きをしたことを、主人公の刑務官がこんなことを言います、「死は必ずやってくる。それに例外は無い。
だが神よ、私にはグリーン・マイルが余りにも長く思えるのです」つまり108歳まで長生きをしていたら、
あまりにも私の人生は長すぎるんです。グリーン・マイルとは死に向かっていく歩みですから。「私がこうして
長生きをして死ぬことができないのは、神が与えた罰です」なぜ罰かというと、彼は罪を犯していないのに
死刑になっていく。その罪を犯していないことを知りながら死刑を執行した。その罰を受けたために私は長生きを
しているんんです」と、主人公は語るんです。
 そこでは、長生きをすることは悲しいこと、「私の愛するあの人も亡くなっていった。親しいあの人も亡くなっていく。
長生きはただただ別れに出会っていくだけだ」と。

 そんなことを表す映画なんですが、しかし私たちが日本の社会において、長寿社会と言われるそんな中で一人一人
のいのちが、思いの通りにならない様々なことに出会いながらそのプロセスを歩んでゆくということが「いのち」で
あるとするならば、そのプロセスがプロセスとして噛み締められない、ということを逆に言っていると思うのです。

 今年3月に基幹運動本部から出た『共にあゆむ』45号の中で、高齢者の声として、「長生きをしたことが社会の
中で冷たい目で見られる」
。あるいは、病院で手がかかるから、人手が足りないという理由で、それまで人手を
借りたらトイレに行けたのに、紙おむつをされるようになった。しかしその紙おむつも交換できなくなって、今度は
直接尿道に管を挿してベッドに寝たきりにされている。そのことによって、ますます行動が衰え、痴呆が進んでいく。
 儲け優先の社会においては、一人一人が本当にままならんことでありますが、いのち、歩んでゆくプロセスを
自覚してかみしめてゆくことができないという現実があります。

 グリーンマイルでみますと、日本だけではなくて、世界的に医療や科学が進む中で、老いということを、老いを
迎えたいのちの尊さということが見えにくくなり、実感できなくなって損なわれていく。そんな中で、「長生きは神が
与えた罰だ」というものの考え方につながっていくのです。

◆ 人類の歴史は欲望の追求

 お釈迦様は「人生は苦なり」と申されましたけれども、「苦を味わう人生は歩みたくない」と、人は考えます。
どちらかというと、思いのまま「願いがかなう事が一番いい」と考え、人類の歴史はまさにその思いをかなえるために、
様々な努力を傾けてまいりました。
「技術の進歩と経済の発展は、人間の夢を次々と実現させましたが、それにともなって人間の欲望をも限りなく
増大
させました」と『教書』に出ていましたが、人は思いの通りにならないことが起らないように考え、そのことが
最上のことだと考えてきました。それが世間の常識であり、そうしたものさしで生きてきたわけです。

 ある時、ご門徒さんと「四苦八苦」について話していましたら、一人の方がこうおっしゃいました。
「確かにお釈迦様のおっしゃるとおりですが、子どもを授かると、この子は辛い目にあってくれるな
思い通りに生きてくれよ、と願うのが親ではないでしょうか」とおっしゃるんですね。

 その時に、80過ぎの年配の方が言われました、
「そうかね、俺はそう思わない。長年生きてきて何を教わってきたんだろう。人間はそれぞれ努力を傾けて自分の
希望や願いがかないますように、と皆努力してきた。しかしそうする中で、思いの通りならないことに必ず突き当たら
なければならないのが人生であり、この世界である、ということを一番身をもって知っているのが長生きした私たち
ではないか。
 だから小さい子どもは、仏様お願いします、どうか願いがかないますように、と言うのはわかるけれども、
そうならないことを一番知っている人間が、それと同じことを願うのはおかしい
んじゃないか。
 だからもし言うとすれば、人間はそれぞれ願いかかなうように努力してくださいよ。でも、そうならないことに
ぶつからなければならないのが人生であり、互いの生涯ですね。その時に、決してくじけてくれるな、めげるな、
しっかり歩んでくれ
、と願うのがこの娑婆に長いこと生きてきた者が言うことではないか」とおっしゃいました。

 いい言葉かどうかわかりませんが、「若いときの苦労は買ってでもせよ」とか「可愛い子には旅をさせろ」と言うのは
人生に対して、そういう見立てがあったから、そういう表現が出てきたのではないでしょうか。
 つまり困難が押し寄せてくることが、来ないように、来ないように、とばかり願うのはひ弱な人間を作り出す。
必ず困難は押し寄せてくる、それを超えてゆく存在になってほしい、と願うのが、この人生を長く歩んできた者
が言う言葉ではないか、というわけです。 そこでは苦を避けるのではなく、苦を抱えてどう生きていこうか、という
発想なんですね。

 そこで先ほど申しました「自覚的な苦」と「社会的な苦」が出てきます。その苦を担ぐ生き方はどうしたらいいだろうか。
「自覚的な苦」も「社会的な苦」もそうですが、両方共が、共に直面して担いで生きているんですね、ということが
確かめられる、共通の荷物を担いで歩んでいるということを確かめられる、そのことが大事ではないか、と私に教えて
下さったわけです。

 ところが人はそうは思わない、共通ではなくて、「私だけが特別」が好きなんです。例えば、今、男の平均寿命は
80才くらいですか、私は半分過ぎましたが、みんなどう考えるかといいますと、まだこのあたりにいっていなくて
良かったね、と考えるんです。「このごろ髪の毛薄くなったな」と言われても、「あいつと比べればまだだ」と、
人と比べて喜んでいるんです。
 で、そういう比べて安心する考え方に立って生きていく、まだそこまでいっていなくて良かったね、と考える。
でも、よく考えてみたら、それは自分自身の将来にも希望を持てない、という考え方に立って生きているわけです。

 現在の社会は、健康第一主義です。「健康が一番ですよ」と誰もが言います。でもそれを裏返してみると、
病気の人を「私より劣った存在」と見ています。自分自身がそうなった時に、それを受け入れる術を持たない
ものの考え方ですね。
 そんな中で生きている。でもよく考えてみると、一緒に「老病死」を抱えて生きているのです。

 苦を抱えて生きるとは、社会的に人が作り出したままならないことを人の営みの中で変えていくことができる
ということです。部落差別はそのひとつだと思います。
 ままならない中で人間が優劣をつけていこうとする、その中においては、自分自身で自分の価値が見えなくなって
いく生き方をしているわけです。 そうすると、老いを噛み締めるとか味わう、というということが無くなってしまうんです。
ひたすらそれを嫌悪していく生き方にしかつながらないのです。

 本当は、そのことが共通の課題であり、ままならないことを担いで歩んでいくことで新しい生き方が開かれる
       のではないでしょうか。