いのちの尊さ @

― 誰がどこで損なわれているのか ―


平成12年5月20日仏青連盟研修会
[講師・伯水永雄 先生]


盛んに言われる「いのちの尊さ」

 こちらの青年会のスローガンには「あえてよかったこのいのち」とあり、また活動方針には「教書に学び、
いのちの尊さにめざめ、現代社会における諸問題に積極的に取り組み、仏教青年の責務をはたす」と
うたってありまして、そのどちらにも「いのち」が入っております。

 ご承知置きのとおり一昨年は蓮如上人500回遠忌の法要がございましたけれど、そのときの3つの課題が
ありました。「いのち・環境・家族」で、基幹運動の中でも「いのち」というのが重視されております。
 そのことは教団内においてもそうでありますし、国内においても、世界的にみても重要と思われます。

 今週マスコミを賑わしております、私の隣の県出身の森総理大臣もおかしな発言をしまして、
浄土真宗本願寺派も抗議文を出しております。
 それらのことも、一連の不幸な事件が続く中で「いのちの尊さ」とか「尊厳」というものを考える
最中で起ったわけです。それでは、なぜこの「いのちの尊さ」が盛んに言われるようになったか
ということについて話をしたいと思います。

◆ 損なわれている事実から出発

 私たちが仏教を学ぶ場合、「お釈迦様が、あるいは親鸞聖人がこうおっしゃったから答えはこうですね」
となりがちなのですが、実はそうではなく、「いのちの尊厳」が言われるようになったということは、
逆さまの現実が起ってくる
からです。悲しい事件が起きなければ「青少年の教育はどうしよう」という
問題は起ってこない訳です。

 いのちの尊厳が損なわれることが起ったから、そのことが問題になってきます。観念や理念があって、
このことを考えましょう、というのではなく、問題があってその解決を図ることで始まり、大きな流れになっていきます。

 「いのち・環境・家族」というテーマも、教えや聖教の中でどういっているのかと考えがちですが、
そうじゃなくて、いのちの尊さが強調されるのは、いのちの尊さが損なわれている現実があるからです。
事実から出発しなければなりません。
 環境を課題とするのも、環境破壊の現実があるからです。
 家族が課題となるのも、家族崩壊の現実とその中で呻吟する人々がいるからなんです。
 差別の問題も事実から出発しなければならない、ということをひとつ申し上げておきたいと思います。

◆ 「理想論」は自分の都合の押し付け

 さてその現実を見るときに自分の都合で「問題」と言っていないだろうか、ということについて考えてみたいと思います。

 例えば寺の中で言いますと「家族が問題だ」という話が出ます。「今まではお爺さん・お婆さん・お父さん・お母さん・
子・孫がみんな揃って仏壇に手を合わせていた。その形態が壊れてしまったから問題だ。何とかしなければ」などと
言われる住職さんもみえるんですけど、今までの寺とご門徒の関係が壊れていったからなんとかしなければ、というのは、
今までの寺や教団のあり方を押し付けるだけ
で、家族が崩壊して何が問題なのかということが問われないわけです。
 そうした発想では「家というのは3代おらんとだめですわ」という理想的な家族像を夢見るだけで、同居したくても
出来ない家族だってあるわけです。「理想的な家族」をもってきても意味が無いわけです。
 つまり理想論を言っても意味が無いということと、その理想というのは自分にとって都合がいいだけだという
ことです。

 例えば過疎や過密の問題がありますが、寺がそのことによって消えてしまうから問題なんでしょうか。
本当は過疎によって一人暮らしや高齢者だけの家族が増え、その中で生活基盤が壊れてしまう、そういう中で
一人一人がどういう寂しさや困難を抱えているのだろうか、ということが問題なんです。
 門信徒を始めとする一人ひとりがおかれている生活・心理的状態に着目する視座が重要なのではなかろうか、
まずそんなふうに考えるわけです。

 昨今様々な犯罪が増えてきていますが、それは「道徳・宗教・倫理がすたれたから、いのちが粗末にされるように
なったんだ」という意見があります。そこで前の森総理大臣のように「教育勅語がやっぱり大事なんだ」という発言が
なされるわけです。
 しかし考えてみれば、教育勅語が強制されていた時代というのは、社会や学校でも強制されていたわけですけれども、
そうした時代こそ「いのちの尊さ」を無視した人権侵害の時代ではなかったかと思われます。
 例えば「親に孝をつくすのが大事だ」と教育勅語で言われましたけれども、そんな中では昭和大恐慌の中、
親に孝をつくすため子どもが身売りをする、なんてことが行われていたんですね。

 そう考えてみると、「倫理や道徳が大事だ、教育勅語が大事だ」というものの考え方は、そのことによって
どういう結果をもたらしてきたのか
、という事実を無視してしまっている。そして「私はそういう倫理観や
道徳観を持っているから大丈夫。でも、あの人は持っていないんだ」という立場で倫理観を押し付けている
のではないでしょうか。

◆ 国際家族年制定の理念に学ぶ

 このごろ朝から新聞テレビを見ると一日中やっているのは「どうしてお金を儲けようか」という問題がほとんどです。
「欲望を社会でコントロールしていこう」という意見は聞かれなくなってしまいました。「産業社会全体はこのままで
いいんだ」という考え方がどんどんはびこっている。
 そうした中では「いのちの尊さ」を損なう考え方が、私の中にも、社会の中にもはびこってきます。そして問題は、
誰がどういう具合にその尊さが損なわれているのかを見なくてはなりません。

 今年は西暦2000年で、1990年から今年まで国際連合が「人権の10年」と位置付けていました。国際子ども年
とか国際婦人年とか国際家族年とかそんな今年は節目の10年目なんでありますけれども、そんな中、確か1994年
だったと思いますが、『国際家族年』というのがありました。なぜ国際家族年というのが制定されたんだろうかな
と考えますと、スローガンに「家族からはじまる小さなデモクラシー」というスローガンが出ていました。

 国際家族年宣言文は、「世界的に産業社会が進んでくると、多くの人が都市に集まり旧来の家族形態が急激に
崩壊をしてきました」。日本で言いましたら昭和30年代の後半からですね。アジアの諸国でいいましたらこの20年、
世界でもそんなことが言えます。

 「世界的な社会構造の変化の中で、伝統的な家族形態が崩壊。その結果女性・子ども・高齢者・障害者の権利が
侵害されているから国際家族年を制定した」となっています。つまり「家族が崩壊したから理想的な家族を
作りましょうよ」というのではありません。家族が壊れていった、その中で一番侵害されているのが
社会的弱者、家族の中の弱者、子どもや、お年よりや、障害者の権利が侵害
されている。
だから国際家族年を制定したわけです。

 戦前の「親に孝つくす」ことの強制が「親のために身売りをする」結果になった。孝行の美名に隠れて、
子どもの立場で受けると身を売るような人権侵害が起ってきたわけです。タイや東南アジアでは
今でも行われています。
 そんな中で一番小さな単位である家族の中でデモクラシーを作っていこう。家族の構成員間の平等であり、
それぞれの人権尊重のためにこのスローガンを制定したわけで、つまり「子どもも、年よりも。障害を持っている人も、
そうでない人も、皆尊いんですよ」という平等に生きることを家族の中で実現するためにこれを制定したんだ、
ということです。

 つまり、ここで言いたいのは、「いのちの尊厳が損なわれているのは、どこで損なわれているのか」。
その損なわれている事実から出発しないと、単に頭の中で「いのちは尊いんですね」ということになるんです。
 そうした中、「唯一の理想的家族像の追求はさけるべきである」と言われました。で、「家族は文化的価値の
保存、伝承の重要な媒介」と評価する一方、「過去の最良の物を保存しようとすることは、家族の構成員とくに
女性にとって有害な作用を及ぼす姿勢ともみなされる」と、宣言文は教えています。

 そうですね、私は家ではお祭りはしませんけど、例えば「報恩講」をするとき、一番大変なのは女性ですね。
お祭りも女性が一番ひどい目にあいます。そんな上に成り立ってきた文化、伝承してきた文化ですが、
そうした現実の中で、一人ひとりの悩みや、いのちの尊厳が奪われている事実に着目することが大事なんです。