東海教区仏教青年連盟主催

公開講座 同朋の集い

いのちを考える 3

― 受け継がれたいのちを生きる ―

【公開講座の記録】

[講師:森岡正博 氏]

 ドナーカードとリビングウィル

 前半しゃべったことについて、皆さん、どんな感じでしょう。質疑応答は最後にやるつもりでしたが、
前半の話で、例えば「自分はこんなふうに思う」とか「これについてもっと聞きたい」とか。
一方的にしゃべってるばかりでは、どう伝わっているか分からないので、もしよかったら、
どなたか質問とか、コメントをいただけると。

――今日、来させて頂いて、ありがとうございます。この中で、私が1番年だと思いますので、
         年寄りの立場からちょっと聞いていただきたいのですが。

 3年前に友だちが延命治療を受けまして、意識もないまま病院で亡くなったんですが、それを見ていて、
私もいつまで生かせてもらえるか分からないのですが、何年も延命治療を受けるつもりは無いと
思いましたので、息子に相談しましたら、「お母さんはそう思っても、子どもとしては、どんな状態であっても
生きていてほしいと思うから、僕は納得しても他の兄弟は何と言うか分からないから、
皆に話しておいてほしい」と言いました。

 そこで、ドナーカードを1年に1度ずつ更新しまして、受けているんですけど、そのカードには
「延命治療はしないでほしいけれども、充分手当てをして直る見込みがある病気の場合には、
充分な手当てをお願いします」と書いてあるんですよ。それを持っているんですけれど、
先生のお話を聞いてまして、脳死というのは、本当にこれが脳死なのかどうかわからない、って
お聞きしましたし、お医者さんでもやっぱり「脳死で絶対ダメだ」ということが分からなかったら
治療していただけると思いますけど、先生でもやはり分からないようなんですか? 
お医者さんの立場からして「これは脳死」と、決められるんですか?

 はい、ありがとうございました。毎日のご家族の中でそういう状況に置かれるかもしれませんし、
自分が死んでいく時どうするかを決める、ということは今後増えてくると思います。これはとても大事な問題だと
思いますけれども、その前にちょっとだけ、話をしたいことがあります。

 今、ドナーカードと言われましたけれども、臓器移植のドナーカードと、尊厳死にはリビングウィル、
延命をしないで下さいとか書いておくんですが、一応この2つは別なんです。こっち(リビングウィル)は
日本語だと「安らかに死ぬための何々」とかあるいは「尊厳死の宣言」・・・色々な言葉があると思いますけれども、
これは尊厳死協会ですとかが発行しています。「死期が近づいているときには延命治療しない」とか
「でも痛み止めはうって下さい」とか書いてありましよね。
 これは法的な効力は日本の場合わかりませんが、現場に持っていけばそれを尊重してくれる訳です。
ですからそれは自分が死ぬ時に、無駄な延命治療をしないことをあらかじめ書いておいて、
現場でそういう状態になった時にご家族がお医者さんに見せると、治療方針として
<無駄な治療はしないようにしましょう>という道具として使える、というものなんです。
これは下(リビングウィル)の方なんです。

 ところがこの中には、今言った「脳死になったら臓器移植して下さい」ということは書いていないんです。
ですので、あくまで<死ぬ時に自分はどうやって死にたいか>という意見を書くものです。
 一方、ドナーカードというのは、日本の場合はこれと完全に切り離されているんです。そして、これは
「どういうふうにして死にたいか」とか「治療しないでほしい」ということは、こっちには一切、逆に書いてないんです。
ドナーカードというのは、<脳死という状態になったら、法律上私は死んだことにして下さい>ということと、
もう一つは<脳死という状態になった時には、臓器を取り出していいですよ>と、いうことを書くんです。

 とりあえず、これとこれは別ものです。ですから二つ持っている方もいらっしゃる。まずは分けて考えて下さい。
例えば、コンビニに行って置いてあるでしょ。あれはこっち(ドナーカード)です。小さな紙ですけど、
下(リビングウィル)はカードというより書類のようになっていますか。

――カードもあります。

ああ、そうですか。じゃあそういう形もあるんですね。

――いつも持っているんですが、今日はたまたま。

 知識として、結構大事なことですが、ドナーカードとリビングウィルは別だということ。分けて考えて下さい。
「延命治療をしないで下さい」というカードを持っているから臓器移植はOKだという訳ではありません。
「無駄な延命治療をしてほしくないけど移植も嫌だよ」という人も居るかもしれないですよね。
とりあえず別に考えて下さい。でも尊厳死の問題は大きな問題ですよね。

 脳死状態と植物状態の違い

 後、「脳死というのがお医者さんが分からないか」ということですけど、これを正確にお話します。
正確というと難しくなっちゃいますけど、まず、脳死という状態があるんですね。それは先ほども言ったように、
必死で治療しているんだけど、脳の中に血が溜まってきて、酸素もいかなくなって、
脳の細胞がどんどん死んでいく。だけれども、その他のところは元気である、っていう状態があります。
 その状態が続いていくと、脳細胞は酸素が送られないと死んでしまうから、それが2日も3日も一週間も続くと、
脳の細胞がどんどん死んでいったら、人間というのは、ものを考える時は脳で考えてるんでしょうから、
多分痛みなんかも感じなくなるだろうな、というような状態な訳です。

 で、ここからなんですけれど、よく似た状態に「植物状態」というのがあります。これはやはり反応が
脳出血とか腐ったりするので、半身不随みたいになり、それで起きれなくなる。寝たきりになる。
それで色々な重さがありますが、それほど重くない人は、「ねえ、ねえ」と、声をかけると「うー」と
反応をする人がいます。
 それももっと重くなってくると、そんなに反応しない。だけど、やっぱり寝ているような状況です。
少しは反応がある。

 もう一度言いますと、植物状態になっちゃう患者さんがいて、すごく重症なんですね。
ですからあまり反応が無いんだけど、よく見ると細かい動きがある患者さんがあるんですね。
それを植物状態といいます。例えばまばたきするとか、手を動かすとか。あと、自分で息ができますから、
自宅で看護できるんです。人工呼吸器を取り付けなくてもいいんです。

 植物状態の患者さんは回復することがあるんです。症状が重い軽い、ありますが、けっこう重くても、
必死で看護してたら何ヶ月後かに喋れるようになったとか、もっと看護してたら、
起き上がって新聞読み出した、という例が報告されています。
 だから人間ってけっこう強いんですよ。脳出血して動かなくなって、喋れない、新聞も読めない、
自分で排泄できないし、本当に寝たきりで動かなくなった人でも、必死で看護してると、
起き上がって、車椅子で生活できるように戻る人も居るんです。

 ちょっと軽いと、普通の生活に戻っちゃう人がいる。それくらい人間の身体って強いです。
回復力がある。1年くらい寝たきりで反応が無かったのに、戻ってきた、という人もたまに
報告されてます。で、(植物状態が)もっと重くなったらどうなるか、というと脳死なんです。
最悪の植物状態が脳死。脳死になるとどうなるかというと、いくら頑張っても横にいくだけ。
戻ってこないですここ(上)に。横にいくだけで、ずっといって、やがて心臓が止まる。
 だから、最初の方にしゃべったのは、今までは<脳死になったら数日で心臓も止まって
冷たくなります>と考えられてきた。植物状態でも死んでしまう場合がありますけど、
回復する場合がある。脳死は絶対に回復しない、だろうと。ところが最近分かってきたのは、
脳死でぎりぎり心臓だけ動いている状態で十何年もつ、ということがあるとはっきりが分かってきた、ということです。

 実は最初に言ったことというのは、お医者さんは、現在もそうですけど、脳死になったら、
いくら頑張っても数日心臓が動いてすぐに止まってしまう、と思っている人がほとんどなんです。
現場でも。でも本当は何ヶ月、何年ということもあるんです。そういう意味で現場のお医者さんでも、
脳死になった人は、どのくらいもつかということは、あまりよく知らない。ということであまり専門家が
知ってはいないということです。

 もうひとつは、脳死になっても心臓が動いている状態の人が、どうしてこんなにもつのか、
ということは分からないんです。世界のトップクラスのお医者さんでも分からない。今、学会の中でも
これは謎なんです。分からないんです。科学なんていうと「進歩した」なんて言うけど、
人体は謎だらけ。何でこんなにもつか分からない。

 だけど、ひとつ、経験的にはっきりしてるのは、脳死というのは、けっこう正しく診断されている。色々、
目玉を触ってみたり、鼓膜を刺激してみたりとか、けっこう残酷なこともやるんですが、
「本当に死んでるかなー」と。これをチェックして、脳死という状態が確認された人の中で、
生き返った人はいないです。だから、その意味では「脳死になったらいずれ心臓は止まる。
生き返ることは無い」。それは確かです。経験的にはっきりしてるんです。
 そこが植物状態との大きな違いで、ここ、大事な点ですからもう一度言いますが、
植物状態で悪くなっていたけど、10人にひとり、100人にひとり、1000人にひとりとか、
「もう死んでるんちゃうかー」という人が生き返ることがあるんです。とこが脳死の場合は、
はっきりと脳死と判断された場合は、生き返りません。

 日本では脳死の検査の仕方は標準的なものがあるんですね。その検査で脳死という診断が
出ればまず間違いなく生き返ることは無い、と思われてます。多分生き返ることは無いでしょう。
だから、その点で脳死の判断が間違うことはまず無いと思います。これは信頼してもいい。
でも脳死になったらすぐ心臓が止まっちゃうよ、というのは嘘です。

 看護婦に押し付けられた悩み

 あと、脳死になった人はどういう人か、看取る人や家族との間にどういう葛藤があるか、ということは、
逆に専門家は知らないです。お医者さんは知らないです。なぜ知らないと思います? 脳死になったら、
お医者さんの仕事は脳死になるまでです。脳死になるまでは必死にやりますよ。脳死になったらもう
回復しないからサジ投げて他の患者のところへ行っちゃう。後はどうするか。看護婦さんが看るんです。
 だからお医者さんは知らないです。脳死になった人と家族の関係なんて分からない。
今行った微妙な問題は知らない。なぜなら医者は居ないから。めんどう看てるのは看護婦さん。
だから私が今日ここでしてる話は、看護婦さんには本当によく通じる、というか、彼女たちは
悩みを持っているんです。だって、お医者さんが見放した患者さんを自分たちはずっと看てるわけです。

 看護婦さんはどうしてるか、というと、脳死になりますよね、そうすると、ほっておく訳にはいかないんです。
動いているし暖かい。だからほっておくと、寝たきりのご老人のように床ずれができるんです。
ほっておくと腫れて膿んでくるんです。だから定期的に体位を変えて寝かせます。また汗を拭くとか、
おしっこを取るとか。

 だから看護婦さんに聞くと、基本的に脳死の患者さんは、重症の患者さんや寝たきりの老人の
患者さんと同じだ、と言うんです。だって生きていると同じですから。医者からは見放されてますけど、
ほっておく訳にはいかないし、老人と同じような看護を毎日毎日してる。してる時に看護婦さんの
抱える悩みがあって、学校では「脳死は死だ」と習った。だから死体です。
 でも何で死体を彼女たちは看てなきゃならないのか、というと、目の前では死体じゃないでしょ。
つまり、汗もかきおしっこをし、床ずれもするような人を、死体だと思って看護できない。
だから看護婦さんが看護する時に、<生きてる>と思って看護しないと看護できないらしいんですね。
気持ちとして。もし<死体だ>と思ったら、何のために看護するのか分からない。だから看護婦さんが悩む。

 だから脳死の問題というのは、すごく複雑ですね。簡単に割り切れるものではない。
脳死の患者を看護する人はすごく悩むんです。ICUって集中治療室の患者さん。だけれども、
お医者さんは知らないと思います。で、日本の医療を引っ張っていくのは全部お医者さんです。
そこに医療の根本的な矛盾があるんです。尻拭いしてるのは看護婦さんです。後は家族ね。
そこは大きな問題だと思います。
 そこで宗教者ということでいえば、もう現にやられているかも知れませんが、ホスピスとか重病の
病棟で心のケア、家族のケアが、日本ではなされていくと思いますが、そういう時に、医者から
見えない部分のケアが必要だと思います。看護の立場でいえば。

 医療の問題を十何年間かやってますとね、本当に分かるのは、医療の専門は医者ですが、
「専門家が正しい事を知ってるというのは嘘だ」ということです。今まで、びっくりするようなこと、
何回か出てきましたね。

 だから皆さんも色々な方面で、特に科学とか技術とかテクノロジーに関わるところにタッチされることが
多分あると思いますけど、心のどこかに置いておいた方がいいのは、この領域については専門家が
言ってることが100%正しいということは無い。私もだんだんわかってきました。自分が間違っていたこともあるし、
失敗したこともあります。だから専門的な意見を聞くときは、なるべく複数の意見を聞いたほうがいいです。

 同じ専門習ってる人でも、右っぽい左っぽい、右端左端ってあるんで、やり方が色々あるんです。
つまり医療だったら、医療に好意的な意見と否定的な意見とがあります。ですから両方聞いて
つき合わせてみる、とかね。すると自分が調べられますから、今は色々な本が出てるし、団体もあります。
自分の足で調べることができますから、そうすると自分なりの知識がとれる。現代の問題は非常に
複雑ですから、いくら専門家といえども100%自分の専門について分かっていない、という悲しい
状況がどの世界でもある。私の世界でもある。私も哲学で全然知らないものもある。同じことです。

 他に聞きたいことなどありますか?

 死んだ人の分まで生きる

――聞きたい、というより自分の意見ですが。割と同じような体験をしたなあー、ということがありました。
私の弟がなくなったのが26歳の時です。山で遭難してなくなったんですが、弟は音楽をやってまして、
沢山作曲してたようです。なくなった後、作曲したテープとかが取ってありますので、そのテープを聞いたり、
楽譜は私は読めませんが、それをおこしてくれて演奏してくれたり、色々なことがありまして、やはりそこに
生きているな、といいますか、文集と同じようなことだったかも知れません。そこにいのちを見出したな、
ということはあるんです。

 それ以来、僧侶として葬式とか法事に行かせてもらう時に、特に葬式だと「別れの会」みたいな形に
しちゃいけないな、ということを考えました。これは、たずねていく、一生をたずねていく儀式にしたい、
ということで、式の後の段階でそうした話をさせてもらってます。人が一生背負ってきたもの、人々
とつながってきたもの、それを忘れたり捨てていくんじゃなくて、もう一回見直してみる。
法事があるときに、そこをまず起点にしよう、ということを心がけるようにしてるんです。
 どうしても教学から入っていくと、まず阿弥陀さんの話をする、もちろん悪くはないんですが、
一回現実と切ってしまうと、その人のご縁で寄ってきて頂いた方が、<今日は法事で来たのに、
仏さんの話ばかりさっせる>となるでしょうけど、「そこの中に仏さんがみえる」ということをお話させて
いただくようにしています。

 後、テロについてですが、私はHPの方で2つ程意見を書かせてもらいました。ただ、それだけではいかん。何とか色々な意見を巻き込んでいきたい。自分が出すだけではなく、皆を巻き込んでいきたいな、と。ただ、確かに大きなところで権力を持った人たちが暴れまわっている。その中で私個人が何かできることなどあるのか、と疑問を持ちながらですけど。

 私の意見で、聞きたいことというものではありませんが。

 先ほども、ちらっと言いましたけど、「生命倫理」という言葉がありますよね。これは最近新聞にも載るようになりました。
「生命倫理が問われている」なんて。新聞記者ってずるいよね。こういう難しい問題、脳死とか、
「新生児を殺すのか生かすのか、今、生命倫理が問われている」なんて、どうするのか全然わからないのに。
 問われているのは分かっているんです、皆さん。どうするのか、どう考えるのか、聞きたいのに
「今、生命倫理が問われている」なんて何だろうと、いつも思いますけどね。

 生命倫理というと、学問では生命倫理学という難しい理論になってしまうんです。例えばどこから人間になるのか。
受精卵とか、赤ちゃんはどこまで大きくなったら人になるか。人になるまでに殺すのはいいのか。じゃあどこから、
なんて難しいこといっぱいやってるんですよ。それは学問としては大事な議論だと思うけど、私はそういう世界に至って、
私は生命倫理を研究してる日本で第一人者のひとり、らしいんですが、最近、生命倫理というのは、
そういうものじゃない気がしてきたんです。

 私が今思っているのは、今の話しもそうだと思いますが、生命倫理というのは、死んだ人の分まで生きること
じゃないか、と思うんです。これは私の今の感じ方です。私は、ですよ。私が、死んだ人の分、あるいは殺された人の
分まで生きる。あるいは生まれてこなかった人の分まで生きる。そう考え、そして生きていくことじゃないか、
と思います。そういうことじゃないかな。分かりにくい言葉ですが、直感的に分かるでしょ。
 今聞いた話もそうでしたけど、ある方が亡くなられて、大切な人だった。それを何か形にしてみたい、と思います。
しなくたっていいじゃないですか、もう死んでるんだから。勝手じゃないか、と思うけど、そうじゃない。
死んでもまだ私と関係ができているわけだから、その人の分まで自分が生きる、
ということを私が引き受けざるを得ない、というような感受性をもつ、ということですかね。

 例えばさっきの話、お母さんが娘さんの文集を作りましたよね。あれだって「娘さんは死んでるんだから、
文集なんて関係ない。親の自己満足だ」という言い方もできると思います。「作ったって意味ないじゃないか」という
言い方もできると思う。だけど文集を作った親の気持ちっていうのは、そうじゃないと思うんです。
 文章を集め、皆に声をかけて、親しくしてた人とかに「文章書いて」と言って集める。その作業のひとつひとつの
中に娘さんが生きているんですよ。その作業をひとつひとつすることが、娘さんの分までお母さんが生きると
いうことじゃないかな、と思う。それを生命倫理と言うんじゃないか、という気がするんです。
 もちろん、こういうこと言うのは私だけですよ、きっと。生命倫理やってる学者、偉い先生たちは絶対
こんな話はしないです。「森岡さんが、そう言ってました」、「ああ、森岡かー」。私はレッテル貼られてますから。

 いのちのリレー

 実は脳死の文献を読み直していたんですが、柳田邦男さん、って方が似たようなことを言ってみえるんですね。
『犠牲』て本があって、ベストセラーになりましたんで、皆さんお読みになった方も沢山みえると思いますが、
ノンフィクション作家で有名な柳田邦男さんという方がみえますが、彼の息子さんが首吊り自殺をされて、
未遂で脳死になりました。そして脳死になって何日間かを一緒に過して、心臓が止まるまで看取るんですね。

 それを経験したことによって、柳田さんは自分の生命観ががらっと変わるんです。それまでは彼は結構ドライで
割切って考えていた、と彼は言います「人間なんて脳がダメになればすぐ死だし、割り切って科学で決めればいい」と
思っていた。ところが、実際自分の息子さんが脳死状態になって、今までの自分の割り切りが浅はかだった、
ということに気が付くわけですね。それを本にしたのが『犠牲』という本ですが、あれを読むと、家族が脳死になる
ということがどういうことか、淡々と書かれていて、非常に感動するわけです。

 あの本の最後の方にこんなことが書かれています。彼の息子が脳死になった意味は何だろう、と。
何か意味があるんじゃないか。自分より先に死んじゃうわけです。不条理なことです。でも意味があるんじゃないか。
病室にいる彼は反応が無いわけです。でも暖かい。すると不思議なことに「対話ができる」と言うんです。
 入室が許されて、脳死状態の息子さんが居て、二人きりで残されて、そうする時に、言葉は出ないんだけど、
自分の中で<どうしてお前こうなったんだ>と問いかけると、息子は言葉は出さないけど何か返してくれる。
<ああ、そうだったのか>と。これは対話じゃないか、と。

 実は他の例でも聞きます。特に暖かいからリアリティーがある訳です。言葉はしゃべれない、
だけども問いかけているうちに思い出すわけです。<そういえば、お前がこうしてた時、
何もしてやれなかったな>とか<何であんなこと言ったんだろう>とか。昔のことを思い出す。
思い出すと、今初めて気が付くことがあるわけです。その人が息子なら、息子が生きてた時には
全然分からなかったこと、脳死状態で言葉が返らなくなって初めて<ああ、あの時の言葉は
こんな意味だったのか>と。そこで、わっと気が付く。

 これは多分想像されると分かると思いますけど、そこで気が付いたことというのは、
息子さんから返してもらったことだと思えるんですよ。問いかけたら返ってきた。これも対話じゃないか、
と思います。これは今すごく私は大事に考えているんです、これっていうのは。存在と対話する、
としか言いようが無いですね。言葉は返らないけど返る。
 柳田さんもそういう体験をする訳です。そういう対話をするうちに、息子がこうなった原因は彼自身が
かかえていた家庭に大問題がある、と彼は気づかされていくんです。プライベートなことだから多くを
語っていないけれど、柳田さんはちゃんとほのめかすように書いてます。彼が世間には見せてこなかった
彼のどす黒い問題、それがあって、悪いことに自分がその問題から目をそらしていた。「仕事が忙しい」
とかいって。問うているうちに柳田さん自分でだんだん分かってくるわけです。

 自分で分かってくるんだけど、息子さんが脳死になって初めてわかる。息子さんによって
自分が逃げ続けていた問題に直面する訳です。直面せざるを得ない。実は、柳田さんはしばらく文章が
書けなくなっていた。でもそのときに、大事なことを息子さんから気づかされて、自分はそれを書かなくてはならない、
と思うわけです。
 本当の言葉で自分は書かなくてはいけない。それを息子さんから呼びかけられている。
ですから脳死の息子さんとの対話を何日か経験したことによって、再生したというんです。
彼はそれ以上言ってませんが、言葉にならない会話をすることによって、いのちを与えられた訳です。
息子さんからいのちを与えられた、親が。ここがポイントだと思うんですが、

 柳田さんが書いている文章を読み直して、私は発見しましたが、これって、前にも例に出しましたけど、
例えば、お母さんが娘さんの文集を作った、作る中で娘さんの生のを生きていった親、それを私に見せて、
さらに私がインパクトを受けて色々なことを発想して、それを皆さんにこう言ってるでしょう。
そういうふうにつながってくるいのちがあるんです。
 柳田さんも同じで、脳死になった息子さんからいのちを与えられた彼は、<もう一回書こう>って決心するんです。
それで『犠牲』って本を書くんです。これって、本当のいのちのリレーなんじゃないかな。

 いのちのリレーって臓器移植の問題ですね。脳死になった人から心臓を摘出して移植する。
移植された人はいのちを長らえる。これ、「いのちのリレー」って言います。それで「移植をやろうよ」って言ってる。
これもいのちのリレーではあるんでしょうが、私はそれよりも、今の柳田さんの例の方が「いのちのリレー」に
ぴったりくるような気がします。あるいは文集を作ったお母さん。これ以上は上手く説明できなですが、
死んでいく、そこに立ち会った家族、そしてその間で今まではできなかった対話をした時に、死にゆく人から
受け継がれてゆくいのち、というのがあるんじゃないかな。

 そのいのちというのは、どうなるかと言うと、次の人のところでストップしてないです。次の人、また次の人。
その人を通じてまた次の人。皆にずっと受け継がれていきます。こういうものってあるじゃないですか。
受け継がれていくいのちのさざ波みたいだな、と思う。じゃあ、そのいのちというのは、娘さんからスタートした、
息子さんからスタートしたか、というと、もっと前から来ているものがあって、色々な人たちからずっと連なってきた
ものじゃないかな。
 そういうつながりの間に対話というのがあるんでしょうね、言葉にならないような。受け継いでいったのを生きる。
この営みの一つ一つが生命倫理なんじゃないかな。もし生命倫理という言葉を使うんだったらね。

 ちょっと抽象的な言い方ですけれども、例えば脳死の現場では、脳死と本当に直面した人の中でけっこう
大きなことのひとつになっている。ですから脳死の問題で悩むのは、こういう次元のことに関わっちゃうからです。
だからそういう人たちをサポートするのは、こういう次元のことをサポートしなければならないかも知れないですね。
もっと上手く言えればいいのですが。