名古屋西別院仏青勉強会

人間関係 2

― 暖かい思いやりの気持ちを広げてゆく ―

【仏青勉強会の記録】

[講師:李平博昭 先生]

 足りないものは「愛」

 もうひとつ私の師匠の本の中で注目すべき言葉が出ているんです。これは、
私もいろいろなところでお話してるし、前におじゃました時にお話したかも知れませんが、

「心の中に何か足りない感じがあるとき、その足りないものは必ず愛である」

 こういう言葉です。

 仏教で愛は愛欲だからいいイメージで語られないことが多いのですが、慈愛という言葉が
あったりしますので、そういう意味では「愛」というのは「思いやりの心」です。そういうふうに
説明がされてます。思いやりの心というのは、相手の身になって考えたり感じたりして行動する。
これが「思いやりの心」です。相手を無視すると、思いやりの心は途端にお節介になる。
そういうふうに言われていますが、何となく解る気がしませんか。

 この言葉に抵抗感がある人というのは、比較的自分の人生で辛い思いをしてきて、
<そういう温かい思いというのは自分には必要ないんだ>と思い込ませて、それで
バリアを張ってる人、というのがけっこうこの言葉に違和感を感じられたりするんですけれど、
普通の場合、<ああ、なるほど>と思うんですね。

 人間は身体と心をもって生きている。身体を支えるものは食べ物、すなわち色々ないのち、
ということでしょう。生きていくためにはいのちによって支えられなければならない、
そういう身の問題というものがあります。だから一人では生きていけない、当然そういうなんですね。
と当時に、心もエネルギーが必要です。心に必要なエネルギーとは愛、すなわち思いやりの心。
そういうふうに考えてもらったら、「心の中に何か足りない感じがあるとき、その足りないものは
必ず愛である」というのは分かっていただける気がします。

 食べ物はコンビニに行ったら24時間売ってます。それは身体を支えるもの。ところが、
心を支える愛はコンビニに行っても売ってないですね。「腹が減ったら飯を食えばいい」というのは
皆知ってるんです、<食わんと死ぬぞ>と思っているので、食うことは皆忘れない訳ですね。
ところが心のお腹がすいた時には何を食えばいいのか分かんない。それが実は、今の様々な
問題を引き起こしている、というふうに考えてみると、現在の様々な問題を解く鍵は、「愛」とか
「思いやりの心」ということになります。

 阿弥陀様の願いを私の志に

 仏教青年会ですから、仏さんの話を交えますと、私は思いやりの心の究極が阿弥陀様の願い、
というふうに思っています。「若不生者 不取正覚」――これは、阿弥陀様の願いの中で一番重要な
願いと言われている「第十八願」の中にある言葉です。「もし生まれなかったならば、正覚を取りません」。
生まれるというのは仏様の世界に生まれる、往生ということです。あなたが往生することが
できなかったならば、「正覚」これは覚りということですね。覚りの位を取りません。
主語は何かといえば、これは阿弥陀さんということです。

 阿弥陀様ご自身が、「あなたが、つまり私たち一人一人が、十方衆生と呼びかけられている私たちが
仏様になれないようならば、私も仏様にはなりません」という意味が「若不生者 不取正覚」です。
つまり、「あなたが仏になれないならば私も仏になりません」これは、「あなたが本当に喜びに包まれた人に
成って下さるということが私の無上の喜びだ」と言われているということなんですね。「あなたの喜びが
私の喜びですよ」というのが阿弥陀様の願い。逆に言えば「あなたの苦しみが私の苦しみですよ」というのが
お心ですね。「あなたの悲しみが私の悲しみですよ」というのが阿弥陀様の願いだ、という風に頂くことができる。

 それと、誤解を恐れずに言えば、「本当の意味でのあなたの幸せが私の幸せでもあるんですよ」というのが
阿弥陀様の願いの心なんです。これが「思いやりの心」というものです。

 そういう思いやりの心に出会ったときに、私の心が満たされてゆく。ここに「心の中に何か足りない感じが
あるとき、その足りないものは必ず愛である」ということこの愛を頂けるというものが思いやりの心なんでよ、
と。その思いやりの心とは、あなたの悲しみを私の悲しみとしていきますよ、「あ、そうね」、「大変だったね」
「悲しかったね」「苦しかったね」という心によって支えられてゆくのが私たちなんだ、とこういう風に理解する
ことができたら、人間関係というのは何なのか、というのは、段々と分かってくるじゃないかと思います。

 よく今までの説教の中では「若不生者 不取正覚」、あなたの喜びが私の喜び、あなたの悲しみが私の悲しみ、
そういう風に仰って下さる阿弥陀様の願いに出会ったときに、<この私はそういう心が持てない私である>
ということに気づかされる。だから「お恥ずかしい私でございました」と、そこで話が終わっちゃうんですよ。

 ここで終わっちゃうと、恥ずかしい私で終わっちゃうから、頭を下げたままどうしようもないですよね。
今までご聴聞されてみえたご同行さんでも「今日はいい話を聞こうと思ってやってきて、お勤めが澄んで、
さあお話聴こうと思ったら、我々は煩悩具足の凡夫、仕方が無い、しょうがない、お恥ずかしい存在、
人のことばっかり傷つけてどうしようもない私だ」と。何かしょぼーんとさせられて、その後で印籠が出てくるんですよ。

 印籠とは「決まり言葉」と「権威」ですよ。「この恥ずかしい私をお救い下さるのが阿弥陀様で。ありがたい」。
で、何かよう分からんけど「ははぁー」って。

 何か違うんじゃないかな。

 そういうお恥ずかしい私をお救い下さるのが阿弥陀様である、というのでは、今の私がここで
<ああ、よかったな>と救われるんではなくて、そういうお恥ずかしい私を「死んでから後で救いますよ」
というところでしか語られてこなかった。

 これは今日の主題ではないので置いときますけど、そんなところで教えが説かれてきたように
思うのですが、実はご門主様が1998年、蓮如上人のご法要の最後の日にご消息というのを
出されたんですが、具体的な言葉は申し上げませんけれども、阿弥陀様のそういう願いに出会うことが
できたら、阿弥陀様に願われている、ということが頂けたら、お互いに私たちは願われておるもの同士である、
ということに気がつくことができる。そうすると、お慈悲というのはあなたの幸せが私の幸せですから、
そういう心を頂いて、私が暖められたら、暖められた私が、色々な人に対する敬愛の心を持つことが
できるようになるんだ、と。そして、あらゆるいのちを大切にする心が育まれていくんだ。
そして阿弥陀様のそういう願いを私の志にして生きてゆく私になってゆくんです、というふうに
御満座のご消息というところで教えて下さっているんです。

 まず私が愛によって満たされる

 私の先生は思いやりの心というのを、

「自分で気が付かずに愛情を求めている心の状態が何か足りない感じとして出てくるのである。
何か足りない感じが満たされるのは、人の思いやりが心に身体に染み込んだ時である。
そうなれば自然に自分の中から思いやりの気持ちが湧き出てくるものである」

こういう風に解説しています。

 つまり、心の中に愛が足りなかったら、寂しくて辛い思いをしているんだけど、その私に対して人が
思いやりの気持ちを向けてくれたら、それによって暖められて、暖められたこの私が今度は外に向かって
その愛を伝えていくことができるようになっていきますよ。それが実は人間関係をつくっていく礎になっていくわけです。

 つまり、私の心に愛が足らなかったら、しんどくて人のことを思いやる気持ちも湧いてこない。私の中に愛を
いっぱいもらったら、人に対する思いやりの気持ちが湧き出てくる。ということは、人に対して優しい思いが持てない、
人を傷つけてしまうような暴言を吐いてしまう。そういう時の私というのはどういう私か、というと、それは私の中に
愛が足りてない、ということです。この筋道、お分かり頂けますか?

 だから同じ私が、同じ人に対してあるときは<いい人だなあ、優しい人だなあ>って思って、仲良くなりたいと
思うけれど、ある時には<この人ひどい人だな>と思う、というのは、これは相手の人が悪いのではなくて、
自分の中に余裕が有るか無いかなんです。

 お説教の中でよく言われるのは、「煩悩具足の凡夫だから、もう欲も多く、"いかり、はらだち、そねみ、
ねたむこころ"が多くって、もう死ぬまでそれが続くんだ」と。「だから人に対して暖かい思いは持てないのが
私たちだ」と、こういう風に言われるんだけど、そういうお説教聴いたら、反発するじゃないですか。
普通、反発しません?

 「もう、どうしようもない奴やー」って、衣着た人が言うとね。「でも時には優しい思いを持つこともできるし、
暖かい思いも持っているんだけどなー」って。うちの仏青で話をした時、十何年前ですけれど、バーンと
反発する子がいましてね。広島ですから広島弁で「ほんぎゃねん、悪う悪う言わんでもええじゃにゃーきゃ」と、
こう言うんです。「わしかて優しい思いを持つことはできるけぇ」って、こう言って返してきたんで、なるほどなーって。

 その頃は私もそういうお説教してましたね。ただ、心に余裕が無くなったら、人に優しく思えないのが私だ、
ということでしょ。だから暖かい人間関係を育んでつくろうとしたら、まず私が愛によって満たされるしかないのです。
優しい愛によって包まれていくしかない訳です。
 攻撃されない、護られる環境の中に自分の身を浸していくということでしょう。それが人間関係をつくる一番の
スタートラインということなんだと思うんですよ。

 笑顔の裏で

 そういう場というのが何かというと、少々色々なことを言ってもそれを批判されない、という場だと思います。
「ああ、そうか。あなたが言ってること、なるほどね」と理解してもらえるそういう人間関係を作り上げることができたら、
その中で癒されていく、だからそこで愛をもらって今度はそれを色々な人に伝えてゆく。

 観念的な話になってしまいましたけれども、『やっとかめ通信』に掲載された虐待の話
【※編集者注:『家庭内暴力からみえてくるもの』#「人は虐待をする」という認識参照】を見ていたら、
「人は誰でも虐待をしうるものなんだ」という認識をちゃんと考えておく必要がある。というようなことを
仰ってたみたいですね。それは、まさにそうだと思うんですよ。「私だけはそんなことはしません」という人
はいない。で、虐待をしてしまうのは何故か、と考えた時に、それは、虐待をしてしまうその人自身が
「還る家」を持っていない。支えられるというはたらきの中にいることができない。そういうことなんだ、
ということを富田さんも同じように言ってます。僕もそういうふうに思うんです。

 またちょっと読んでしまいますが、虐待をしているお母さんからの手紙が載ってます

はじめまして、私は三人の娘をもつ母です。
 去年の神戸児童連続殺傷事件以来、その事件の猟奇的犯行の恐ろしさ以上に、
犯人の少年が語る母親像と私と類似している点が多々あることに、非常にショックを受けました。
 私は三人とも実の娘でありながら、小二の二女にだけ、愛情が持てず、いじわるや、数々の傷つける
言葉を投げかけたり、暴力を振るったりしてしまうのです。
 親子はお互いを映し合う鏡のようなものなので、私の態度のせいで、二女が、そのようになったのかも
しれないのですが。
 二女に何かを聞くと、すぐ固まってしまって、返事をしない。答えるまで同じ質問を十回、二十回と
重ねて聞いていくうちに、泣くような質問でもないのに、ギャーギャーと泣きわめく。私は、
しまいにイライラがつのり、ひっぱたく。
 自分にとって都合が悪いことは、必ずと言っていいほど隠し、すぐバレるようなうそをつく。
 何回、同じことを注意しても、忘れものや、なくしたものが絶えない。物をすぐ壊す。自分の周りが、
かたづけられない。動作がものすごくにぶい。言わなければ何事もやらない。
 長女(13歳)や三女(5歳)と違って、改めようという意識の全く認められない二女に腹がたって
しようがない。 「ボケ! カス! マヌケ!ブタ! デブ! うそつき! そんなバカなら死んじまえ! 
大きらいだ! おまえなんて生まれてこなければよかったんだ!」
 こんな言葉さえも、ぶつけてしまう日常。私が子どもの立場だったら、どんなにショックか、
わかりきっていることなのに……。
「文藝春秋」三月特別号に載っていた少年の供述調書の写しを読みました。生まれた時は、皆、
純真無垢で天使のような子どもが、これほどまでに冷えきった心を持ってしまうのか、
いや、冷えきった心にされてしまうのか。
 その環境、特に、子どもの一番近くにいる母親の影響の大きさを考えると、将来、自分の娘も
冷えきった心を持ってしまうのではないかと不安でなりません。
 富田先生の講演会は、おととしと昨年、一回ずつ、自分の子育てにむち打たれるような想いで、
聞かせていただきました。
 いくらすばらしい講演会を聞いても、ためになる本を読んでも、様々な事件によって、親のあり方を
ぶつけられても、二女に同じような態度を取ってしまう葛藤の毎日。自分がいやになってしまいます。
 現在TBSテレビで金曜夜十時から放送されている『聖者の行進』というドラマは、いろいろなことを
考えさせられるドラマです。  自分が悪いとわかっていながら、いつまでも直せないバカな母親の
胸の内を長々と書いてしまって申しわけありませんでした。
 これからは、子どもの還る場所を奪う母親にならぬよう、努力するつもりです。さようなら。
 講演会、また聞きに行きます。

客観的にいったら、このお母さんの思いというのは、このお母さんこそが大変な状態にあって、
とんでもない「キィー」という状態になってるんだな、と分かるんですけど、このお母さんにはやっぱり
そこまで感じられてない、だけど『命の別名』という歌を聴いたら、そんな自分の大変さみたいなものが
何となく分かるから感動してしまう、と思うんです。ちょっと聴いてみましょう。

 <歌詞省略>

 中島みゆき、って人はすごいなあと思うんですよ。この本の引用では「僕がいることを喜ぶ人が 
どこかにいてほしい」ということですけれど、2番の冒頭のところに

たやすく涙を流せるならば
たやすく痛みもわかるだろう
けれども人には
笑顔のままで泣いてる時もある

っていう、これは人間関係をすごく現している言葉じゃないかなと思うんです。

 涙を流せるというのは、安心できるから流せるわけです。涙を流すというのは、弱さを表現しているんです。
その弱さを表現したときに「だめじゃないか!」とやられたら、もうどうしようもなく傷ついちゃう訳です。
ところが涙というのは流したらいいんだ、泣くことというのは大事なことだ、と言ってもらったら、
安心して心を開くことができる。だけどそれが中々できない。涙を流さないように頑張ってる。それはさっき
言った自立の部分でいえば、人に頼ろうとしない、自分で一生懸命頑張ろうとする、ってそういうことですよね。
それを乗り越えて涙を流せるような、そんな心を開ける人になれば人の痛みも自分の痛みも素直に
肯いていけるし、「しんどいんだ」、「助けて」って言えるんだけど、なかなかそうは言えない。「けれども人には 
笑顔のままで泣いてる時もある」。

  だから、涙を流せないから、元気そうにして笑顔を出しているけれども、心は泣いている。
その「笑顔のままで泣いている」人に対して、その笑顔の方に注目してしまったら、むちゃくちゃ辛いですよね。
でなくて「笑顔のままで泣いている」時に、その泣いてるということに気が付いて、そこに寄り添うことができたら、
人はすっごい満たされた暖かいものをもらえる、それが思いやりのはたらきなんだと思います。そういう中で
お互いが生きていくことができればいいのになーって思うんですが。

 本当に出あえる場

 富田富士也さんはこんな風に書いています。

この母親自身、毎日を不安な思いのなかで子育てしているのである。
「イライラがつのり、ひっぱたく」母親の手を、これ以上傷つけないためには、
この母親にこそ「還る家」が必要である。虐待される子を救うことも
もちろん大切だが、親の心も誰かが汲み取らなければ、解決への道は遠のくばかりである。
 だが、それ以上に、やはり無力な子の報われなさを受けとめていかなければ、
心は荒れていく。そのためには善し悪しに関係なく、しっかり子どもに絡みあい、
そして心に寄り添い耳を傾けなければならない。ときにどんな悪態をつかれようとも
聴きつづけるとき、荒ぶる子の心は鎮まっていく。その外されたくないという気持ちを
聴くなかでみえてくるのが、健気さや人のいじらしさである。
 年齢を超えていかなる人にも健気さ、いじらしさは宿っている。とくに無力な子は、
親にこそそこに気づいてほしいと願っている。

けな気さやいじらしさは、中島みゆきの歌でいえば、「たやすく涙を流せ」ない、ということの中で
けな気さやいじらしさがあるんですね。そこを深く見つめることができたら、そういう形の仲で支えあう
人間関係ってのができたら、素晴らしいですね。

 もう一つ『命の別名』のB面に入っている『糸』っていう歌を聴いて下さい。

<歌詞省略>

 中島みゆきは「逢うべき糸に」ですね、糸に出逢えるということを言ってますが、いいでしょう。
すごいな、と思いますけどね、中島みゆきって人はね。

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない

2番は、

織りなす布は いつか誰かの
傷をかばうかもしれない

最後のところは、

逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます

 普通は「幸せ」と書きますが、これは物質的なしあわせを言うんだそうです。
こっちの「仕合わせ」というのは、出逢いの喜びを表現する。人間関係の中で頂けるしあわせ感を、
どうも言うみたいです。わざわざそういう言葉が使ってあるんですけど、何か

なぜ めぐり逢うのかを
私たちは なにも知らない
いつ めぐり逢うのかを
私たちは いつも知らない

何かそれも何となく、人間関係のはかなさとか、不確かさということを言うんですけれど、でもそれを
重ねていくということの中で出あえる喜びというのが頂ける、ということなのかなーって思うんですね。

 ある人がこんなことを言ってくれたんですね。「お互い暖かい思いをいっぱい持っているのに、
その暖かい思いを素直に外に出すことができない、でも人の暖かさというものはもらいたい」

 勝手じゃないですか、都合がいいじゃないですか。自分の思いは怖いから外に出さないけれども、
人の暖かさはもらいたい。お互いがそう思っていたらつながれないですね。だから自分の中にある
暖かさや願いというものを素直に表現できるようになれば、相手も自分の中にある願いや暖かさを
出してくるようになる。その願いと願いが重なったときに本当に意味での出あいがある。その暖かい
願いというのは、私は阿弥陀様の願いと何ら変わらないものじゃないかなーって。だから阿弥陀さまの
願いを私たちが共有してゆくってゆうところに本当の出あいがあるのかなーって。

 だから浄土真宗でいうご利益というのは、私は最近こういうふうに言っているんですけど、
「人と出あうことができる。本当の意味で出あうことができる」これが浄土真宗のご利益ですよって。
そんな、ちょっとキザなんですがね。でもそうなんじゃないでしょうか。