避妊・去勢の賛否? 2005,1,27
Yahoo掲示板の「避妊/去勢について」このタイトルに少しだけ参加しているのだけれど。
文字掲示板(airさん: 05’1/22 土 23:00:24)に書き込みのあった会話も
此処での会話について,これ以上Sarubiaへの会話はトピに迷惑だからと,
更なる会話が必要ならば,Sarubiaの掲示板へ書き込みして欲しいとの言葉で
続きを交わしたものなのだ。
それはもういいとして,昨夜,
:結局は避妊・去勢反対とは大きな声では言えないのか?
このような書き込みがあった。

避妊・去勢についてよく賛否論があちこちで交わされるが,
Sarubiaはどちらであっても,犬の事を真剣に考え悩んで
飼い主が出した結論から,命の終末まで犬の苦しみも全て
受け止めて愛していく事が出来れば,それは犬にとって
幸せな犬生なのだと思う。だから,

 ○○さん,こんにちわ。

http://www.f8.dion.ne.jp/~ganbare/

>犬の苦しみを最後まで愛し,
>飼い主の出来得る限りの中から世話を全うする事が
>犬に対する愛なのだと想います。

私は今日上のURLの掲示板にてこのようなRes:をしたのですが,
これは避妊・去勢手術とは関係なく
悪性癌が判明したけれども,検査等をしないで
このまま終末まで投薬のみで看病する決意をされた
投稿者への言葉の一文なのですが,
私は避妊・去勢についても其々の飼い主さんが
犬の為に真剣に悩み考えて出した結論によって命の終末まで
犬の苦しみも含めて愛してゆく事が出来れば
その犬にとっては最大の幸せに繋がっていると想っています。
そういう意味でSarubiaは犬の苦痛を見る事に耐えられないので,
避妊・去勢手術をしていくというだけの事です。

愛するものの為に真剣に悩み考えた結果,
避妊・去勢手術をしなかったからといって,
犬を愛して居ない事にはならないし,
それも愛の形の一つであり,
犬の命を粗末にした事ににはならないと想います,

避妊・去勢手術をしているからといって,
犬の事を真剣に考えて愛している証とは言えないと想います。

   ****************
このように返信をした。
  

親孝行とは・・・ 2005,1,19
----- Original Message -----
From: "Sarubia"
To: "YBA Tohkai"
Sent: Monday, January 03, 2005 3:49 PM
Subject: 謹賀新年
: すっかり御無沙汰をしてしまっているSarubiaです。
: 皆々様に置かれましては,良き新年をお迎えになられましたでしょうか。
:
: まもなく54歳を迎える私の母親に対する親孝行とは,何を持って親孝行といえるのか。
: 確実に死が近づく親に対する「孝行」とは何ぞや。
: 親にどのように接する事が親孝行なのか。
: 真剣に悩み,皆様の御意見を伺いと想いつつ,
: 我が身の日々に追われる時を無為に過ごしてしまいました。
:
: 仏教に於いて「親孝行」の定義なるものはあるのでしょうか?
:
:
          *********************************
----- Original Message -----

From: "YBA Tohkai"
To: "Sarubia"
Sent: Sunday, January 16, 2005 5:58 PM
Subject: 13日に

: Sarubia様 
:
: こちらは東海教区仏青連盟(浄土真宗やっとかめ通信)です。
:
: 返信遅れましたが、13日にhttp://www2.big.or.jp/~yba/QandA/05_01_03.html
: {仏教における「親孝行」の定義}という題で掲載させていただきました。
:
: 意を尽くせませんし、まとまらない文章ですが、
: 少しでもSarubia様の思いに応えることができましたら幸いです。
:
: 合掌
:
: -------------------------------------------------------
: 浄土真宗本願寺派 Email yba@big.or.jp
: 東海教区仏青連盟 WWW http://www2.big.or.jp/~yba/
: -------------------------------------------------------
  ************************************************

【仏教青年QandA】
仏教における「親孝行」の定義
― 真の宝を相続させていただく ―
a.. 自他の壁を破る
b.. 敬恭供養と菩提心の相続
質問:
確実に死が近づく親に対する「孝行」とは何ぞや。
親にどのように接する事が親孝行なのか。
真剣に悩み,皆様の御意見を伺いと想いつつ,
我が身の日々に追われる時を無為に過ごしてしまいました。
仏教に於いて「親孝行」の定義なるものはあるのでしょうか?

2005/1/3

返答
◆ 自他の壁を破る
 仏教は生きた教えであり、あまり「定義」ということで内容を固めない方が
よいのですが、「親孝行」を積極的に説くのは儒教など中国の思想であり、
仏教では孝行を第一とするのではなく、仏心を主軸として生きる、
その結果が親孝行にもなる、と理解していただくとよろしいかと思います。
 また、気をつけなければならないのは、自分の親のみに孝行するということは、
時として狭量な感情を生み、自他の壁を高くすることになってしまいます。
こうなると、親子の依存が高まり過ぎて確執を生み、互いの社会性を妨げる結果になりがちです。

 仏教で父母や孝行についての記述を見ますと――

一切の男子は是れ我が父なり、一切の女人は是れ我が母なり。
一切の衆生は皆是れ我が二親、師君なり。

『教王経開題』 より


-------------------------------------------------------------------

慈父の恩高きことなお山王のごとく、悲母の恩深きこと大海のごとし。

『大乗本生心地観経』巻三 より


-----------------------------------------------------------------------

子には慈悲を加えるが親の道、また親には孝行を尽くすが子の道。

『盤珪禅師法語』上巻 より


------------------------------------------------------------------------

父母は七世、師僧は累劫なり。義深く、恩重し。

『浄心誡観法』下 より

というように、一切衆生はみな自分の両親であり、恩は高く深く、親子それぞれが
真実の法と覚りを中心として生活しながら、立場の違いもあることを明かにしております。
「親たるもの、いかにあるべきか」という親自身の願いなくして子の孝行は語れません。
子を持てば一応親にはなるのですが、親自身が「私は真の親としての値打があるのだろうか?」
と問い、「このままの私であっては、まことに子どもに済まない」と懺悔し、真の親に成ろうと
立ち上げる、その一念が親心なのです。ところが、「誰のお陰で大きくしてもらったと思ってるんだ!」と
子を怒鳴り、「こんな親不孝者に育てたおぼえはない」と子を見捨てては、
子は立つ瀬がありません。親心なくして孝行は生じないのです。
 また、これは有名な文章ですが――

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、
一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、
この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、
いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

『歎異抄』5 より

というように、自分の両親だけに孝養しない。また、追善供養はしない、ということを
宣言されてみえます。これは死後の問題だけではなく、当然生きている両親にも
言えることです。そして如来回向の菩提心をもって目の前の人と関わっていく、
「まづ有縁を度すべきなり」とあります。これは仏教の押し付けではなく、
相手から道を聞いていくことで仏教が現実に展開することをいいます。

◆ 敬恭供養と菩提心の相続
 では、仏教でいう本当の孝行は何かといいますと、一つは敬恭供養であり、
もう一つは菩提心の相続です。

 敬恭供養につきましては、例えば {お盆を迎えて}に書いておりますが、
自分はへりくだり、親を尊敬して、親から道を聞く。言葉は色々あるけれど、
“この深い親心を知ってほしい、受け取ってほしい”という願いにお応えさせて
いただくことです。これは、自分が親の立場だったら子どもに何を願うか、
ということを考えてみれば解ります。
 自分が一生かけて為そうとしてきた事柄、苦労や悲喜こもごも、これらを通して
得てきた様々な人生の智慧や真心を、子孫に相続してほしいのではないでしょうか。
自分が死んでも、残せる宝がある人生は幸せです。ただし、宝といっても金銭ではありません、
真心です。金銭は相続争い等の副作用がついて回りますが、真心の相続は副作用がありません。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と申します。名を残せるような自分でありたい、
と願うことは大切ですが、実際に歴史に名を残すことができる人はごく一部です。ですから、
名は残せなくても、せめて生きた証しを残したい、と皆願っているはずです。そこで、
よくよく親の一生を聞き、深きを学び、家宝とし、できれば国宝とする。
そうした親のいのちともいうべき宝を相続していけば、
“この一生は虚しいものではなかった”と、親は本当に安心できるのです。

 つぎに菩提心につきましては、{月愛三昧}の註にも書きましたが、たとえば、
父を殺し母を幽閉するような親不孝の究極ともいえる罪を犯したアジャセ王であっても、
懺悔と菩提心の発露でその罪が消え、清浄な身になったことが記されています。

仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の
悪心を破壊することを知れり〉と。〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの
悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの
衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。そのときに摩伽陀国の
無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの
無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有の重罪
すなはち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮、采女、ことごとくみな
同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。
そのときに阿闍世王、耆婆に語りていはまく、
〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、
無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。
<中略>
如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。まさに知るべし、もろもろの衆生は、
みなこれ如来の子なり。
<中略>
われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作せり。いま仏前にして悔ゆ。願はくは後に
また造ることなからん。願はくはもろもろの衆生、等しくことごとく菩提心を発せしめん。
心を繋けてつねに、十方一切仏を思念せん。また願はくはもろもろの衆生、
永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること、なほ妙徳のごとくして等しからん〉と。
 そのときに世尊、阿闍世王を讃めたまはく、〈善いかな善いかな、
もし人ありてよく菩提心を発せん。まさに知るべし、
この人はすなはち諸仏大衆を荘厳すとす。

『涅槃経』 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 逆謗摂取釈116 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
 釈尊が仰せになる。<王よ、よいことである。わたしは今、そなたが必ず
衆生の悪い心を破ることを知っている>と。
 阿闍世が申しあげる。<世尊、もしわたしが、間違いなくさまざまな悪い心を
破ることができるなら、わたしは、
常に無間地獄にあって、はかり知れな長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、
それを苦しみとはいたしません>と。
 そのとき、摩伽陀国の数限りない人々は、ことごとく無上菩提心をおこした。
このような多くの人々が無上菩提心をおこしたので、阿闍世王の重い罪も軽くなった。
そして阿闍世とともに韋提希夫人や妃や女官たちも、 ことごとくみな無上菩提心をおこしたのである。
 そのとき、阿闍世が耆婆にいった。<耆婆よ、わたしは命終ることなくすでに
清らかな身となることができた。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて不滅の身を得た。
そしてまた、多くの人々に無上菩提心をおこさせたのである。
<中略>
如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。よく知るがよい。
あらゆる人々はみな如来の子なのである。
<中略>
わたしはかつて悪知識に遇い、過去・現在・未来にわたる罪をつくった。今仏の前にこれを懺悔する。
願わくは ふたたびこのような罪をつくるまい。願わくはあらゆる人々がことごとく菩提心をおこし、
すべての世界の仏がたを心にかけて常に念じてほしいと思う。また願わくはあらゆる人々が
永久に煩悩を離れ、文殊菩薩のように明らかに仏性をさとってほしいと思う。
 そのとき、世尊は阿闍世をほめたたえて仰せになる。<よろしい。もし人が菩提心をおこすなら、
その人は仏がたとその大衆をうるわしくととのえるものであると知るがよい。・・>

 この無上菩提心こそ真実信心の内容であり、自分で起こしたようでありながら、
実は「もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり」とありますように、如来が先手で
私と成りきり、菩提心となって発動していただいた果報をいただいているのです。
 この如来回向の菩提心を、親を通して相続させていただく。これが究極の
親孝行なのではないでしょうか。

『安楽集』にいはく(上)、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、
前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、
願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。以上

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末)119 より

意訳▼(現代語版 より)
『安楽集』にいわれている。
「真実の言葉を集めて往生の助けにしよう。なぜなら、
前に生まれるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、
果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。
それは数限りない迷いの人々が残らず救われるためにである」

 こうした道心不退は、わが身一代で終わるものではありませんし、また終わらせることを避けねばならないでしょう。 
阿弥陀仏の存在意義もここにあるのです。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}


※ Beautiful lives にて更新

A:M 5:46 2005,1,17
兵庫淡路大震災から10年。
あの時の体の揺れは,今も忘れえぬ体感として残っている。
今年の10月でタツが我が家に来て10年になります。
家へ来た時は3歳だったタツも今年で13歳を迎えます。
タツが家へ来た時,同じ3歳だった麻呂とポロは,もう居ない。
タツの年齢を想う時,何時も麻呂とポロの年齢から思い出していたのに,
これからはどのようにしてタツの年を数えればいいのだろう。

タツよ。
貴方は幸せですか。
タツよ。
貴方はこの家へ来て良かったと感じる事が出来ていますか。
10年が過ぎても尚今,シェルティに圧倒されて小さくなっているタツ。
それでも,時々は,お父さん,お母さんに甘える事が出来る貴方は,
幸せだと感じる事が出来ていますか。
これからもきっとこのまま続いていくでしょう日々を,
貴方はこれで良かったのだと想ってくれますか。
貴方に,心を伝える事が出来る手段があるならば其の事を聞いてみたい。

形見・・・・ 2005,1,14
亡くなるまで着ていたBanbooの服。
処分する事も片付ける事も出来なかったBanbooの服。
やっと,冷静な気持ちで手に取る事が出来ました。
そして,其の服はChrisの服になりました。
あんなに苦しそうに呼吸困難に成りそうなほどの発咳が,
ピタッと止まりました。
そっと仕舞っているよりも,Chrisが着て元気なChrisになるなら,
きっと,Banbooも喜んでくれるよね。
だって,とっても心優しいBanbooだったもの。。。

ノロウィルス 2005,1,10
Sarubiaの風邪は,ノロウィルスが原因なんですって。
集団で罹患すると食中毒で,個人だと風邪って・・・。
医師の説明。?????。
集団だろうと単独だろうと風邪は風邪。食中毒は食中毒でしょう?
納得出来ない説明だったけれど,生物が原因するって事だから,
お刺身を食べたのが原因なのかな?
でも,2枚貝による食中毒が多いという事なので,
食事の用意をサボって購入したカキフライのお弁当が原因かな?
医師が生牡蠣に多いといわれたので,お弁当の話をすると,
そんな事を言うと店が潰れてしまいます。
感染は家庭が原因です・・・って,言われてしまった(; ̄ー ̄A アセアセ

何れにしても何とか起きる事が出来るようになってやれやれ。。。です。
其の間に未読メールが溜まるばかりで・・・。
最近,余りPCの前に座らないから尚更だけれど。。。。
これが原因で,またトラブルでも起きなければいいのだけれど。



風邪 2005,1,6
薫から「今から帰る」と電話がある。
とうとう,風邪でダウンしたらしい。
掛かり付けの医院で点滴をしてもらってから帰宅,
夕食には柔らかいお粥を作る。
会員さんが薫の為にお弁当を作ってくださったとか。
Sarubiaは薫に,
貴方(薫)の事をこんなにも心配してくださる方があるという事は,
とても在り難い事であり,幸せな事なのだから,
少々の事では,この仕事を止める事は出来ないのですよ。

そのように言い聞かせた。
人間は自分独りで生きる事は出来ない。
たとえ,一人の人であったとしても,自分の事を心配し,
温かく見守ってくれる人が居るならば,それはとても幸せであり,
暖かな気持ちで生きていく事が出来るという事を忘れてはならないと想う。
自分を暖かく見守ってくれる人への御恩返しは,

「自分が辛い事に耐え,苦しいことに耐えて人間として成長していく。」事ではないだろうか。

一昨日は38℃の熱,下痢・嘔吐と大変だったらしいが,
点滴のお陰か,何とか嘔吐せずに無事に出掛けていった。
明日は代休らしいのでゆっくりと寝て体を休養させて欲しい。

渓流釣り 2005,1,5
04’12/30,31と渓流釣りに出かけた隆さん。
30日から,こちらでも雪が降り始めたので,きっと雪が降っているに違いない。
昨年(03’12)は雪が積もっていて更に雨降りの中で釣りをしたという事だったが,
今年は無理なのではないか・・・
更に予定の時間になっても帰宅しない隆さんは,てっきり雪で足止めに遭って
民宿泊まりだろう・・・・魚の始末が面倒なSarubiaは,
自分に都合の良いようにこんな身勝手な解釈をしていたが,何の其の,30尾釣れたと遅くに帰宅。
やはりしんしんと雪が降る中での釣りだったらしい。
捌くのは面倒だが,塩焼きにすると実に美味なのだ。
骨まで全部食べられる柔らかさ。

Banbooが亡くなった後,元気をなくしていたBellも,このように復活。
Bellには届かなくてもナッツは,平気。
油断大敵が増えてしまったわσ(^◇^;)
でも,この油断大敵の二人から,何時も元気を貰っているので,
少しぐらい大目に見るかな?

謹賀新年 2005,1,4
昨年のお正月は14頭の犬が元気で勢ぞろいしていたのに・・・。
そう想うと,どうしても新年を喜ぶ気持ちにもなれずに,
気持ちが落ち込むばかりであったけれど,
多くの方の言葉と我が家の犬。猫達の笑顔に助けられて,
今日もこうして元気に一日を過ごす事の出来る事に感謝す。
日記も書き込む元気もないと放置していけれど,
もう少し,頑張ってみようかな。

我が家の,
Sarubiaの記録になる事だから。。。。

ナッツ君の障子破りから明けた正月だった。